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2017年10月2日

お寺の記憶

今日は調べ物をしてるという方が突然お寺を尋ねられてきました。

内容は個人的なことなので、ここには書きませんが、残念ながらお役に立つことは出来ませんでした。

このお寺はお寺の由緒書きには亨保6年(1721)と書いてあります。祖父や父からの話によるとお城からお墓が見えるのが縁起が悪いからこの地域の墓地を2箇所に集めた一つがここの報恩寺だと聞いています。

しかし、秋山氏が居城として大宇陀に秋山城を築いたのは南北朝時代だと言われています。南北朝時代は1336年から1392年。

その後のお城の歴史は、wikipediaによると、

天正13年(1585年)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去した。以後、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種らの居城となり、改修が行われ近世城郭へと移行した。この間の大規模な改修により、宇陀松山城が大和郡山城や高取城とともに大和国支配の要として豊臣政権に認識されていたことが伺える。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて多賀秀種は西軍に属したため改易され、福島正則の弟福島高晴が入城した。 高晴は、豊臣政権下の大名の改修に加えてさらに大規模な改修を行った。近年の発掘調査により、本丸御殿をはじめとした礎石建物や大規模な石垣、瓦・陶磁器類などが出土し、当時の大改修の様子が明らかになってきている。これらの大名の大改修を機に、城名が松山城と呼ばれるようになったと考えられる。

元和元年(1615年)、大坂夏の陣において豊臣方に内通したとして、高晴は改易され城も小堀遠州らによって破却され廃城となった。破却の際の小堀遠州の書状が現存しており、城割(城を壊すこと)の内容が把握できる貴重な事例として注目される。

と破城以降に報恩寺が出来たことになりなんだかどうも辻褄が合わないんです。

ちなみに昭和34年に書かれた大宇陀町史という本にはどのように書いてあるかというと、

報恩寺(大東)白鳥居街道の北側にあり、浄土宗慶恩寺末。別に不帰堂とよんでいる。本堂は本瓦葺、桁間8間、建坪56坪、境内には地蔵堂がある。本尊阿弥陀如来像は江戸時代の作、堂内手洗石には鎌倉期とみられる石塔の残欠を用いている。

と書いてます。慶恩寺さんというのは同じ大宇陀にある浄土宗のお寺で、寺伝によると持統天皇9年開山なので、699年開山というとても歴史のあるお寺です。ただ、報恩寺の由緒書きには、菟田野の青蓮寺さんの末寺と記載されています。

祖父は社会の先生だったのできっといろいろ調べていたのだとは思うのですが、まだその資料は見つけられていません。

今日お話していて自分の記憶だけだというなんとも覚束ない対応にちょっとせっかくお越しいただいたのに申し訳ないなあと思いました。

過去にとらわれずに今のあり方をきちんとしていけばいいという考え方もあるかもしれませんが、尼寺だったことも含めて自分の今の事実以上のことを後世には残していかないといけないなあと思いました。

ただいま栗が沢山実っています。

徒然なるままに
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報恩寺の住職です。